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補陀落

37年間、消息不明だった戦後韓国を代表する作家ー孫昌渉(손창섭)

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37年間、消息不明だった戦後韓国を代表する作家ー孫昌渉(손창섭)

孫昌渉(손창섭)は1922年、平壌生まれ、日本の植民地時代、満州に渡ったり、日本に留学するなどし、第2次大戦後、平壌に戻ったが、1948年、北から逃れ、朝鮮戦争が勃発した1950年から60年代にかけて、いくつかの作品を発表し、戦後韓国を代表する作家といわれている。
『韓国短編小説選』(岩波書店刊)には「生活的」という作品が収録されている。日本語で読める唯一の作品と思われる。
朝鮮戦争後の荒廃した極貧のスラム街で生きる男とその周囲の人々を描いた作品である。2,3年前だったか、もっと前だったか、一度読むと、悲惨な話ではあるが、妙にしみじみとした味わいのある作品として印象に残った。また、主人公=語り手と同居しているのが春子という日本人というのも興味深い。
この作家に引き付けられたもう一つの理由は、その経歴にある。同書の編訳者である三枝壽静氏が発表している韓国文学を紹介するネットの文章によると、1950年代にいくつかの作品を発表した後、日本に渡ったらしいと書いてあるだけで消息不明というのである。

「この人は「雨の降る日」(1953)、「血書」、「未解決の章」(いずれも1955)、「剰余人間」(1958)などを書いた小説家ですが、もう今は小説を書くのを辞めて、現在日本に暮らしているようです。」

寡作ながら、いくつかの作品を発表し、高く評価され、権威ある文学賞も受賞。日本語にも翻訳されている。戦後韓国文学を代表する人物がなぜ消息不明なのか。ミステリアスである。
ネットで検索しても、孫昌渉の名前は日本語のウィキペディアでは紹介されておらず、その消息についてわかるものはない。そこでハングルで検索したところ、2009年にその消息を追っていた韓国紙の記者によって、生存が確認されたが、2010年6月、東京の病院で亡くなったという。88歳。今から12年前、遠い過去というわけでもない。さらに12年前に88歳という事は今年は生誕100年ということになる。

以下は韓国の新聞の自動翻訳
1973年に日本人の妻を追って、突然日本に渡った後、孫氏は37年間、居場所が謎に包まれ、孤独に暮らし、積極的に照らされず、世間の注目から遠ざかる「忘れられた作家」となった。
その後、1997年まで帰化せず、韓国人として暮らしたが、外国人登録法に基づき毎年登録を更新しなければならないという煩わしさから、妻の姓から98年後に帰化し、「上野昌涉」と改名した。
日本に引っ越した後、彼は韓国に住んでいたときと同じように東京に徹底的に住み、隣の祖父のように地元の公園からゴミを拾い、彼の文章を配る残りの人生を過ごしました。一方、1976年にはユ・メンとボン・スランを連載し、1988年にはキム・ドンリから東方人文科学賞授賞式への出席を依頼され、短期間韓国に来た。

文芸誌『現代文学』は毎年初めにわが国の著名作家の住所を掲載し、孫昌淵の住所は2009年2月まで滯日中(Cheil-jung、日本に滞在)であった。

そして2009年2月、ナショナル・デイリー紙の記者がソン・チャンスプの居場所を突き止めた。記者がソン・チャンソプに対面した時、重い病気で横になり、全く話すことができなかった。このため、彼が消息を絶った後の生活は彼の妻を通して明らかにされました。

2010年6月23日、88歳で死去。ソウル大学韓国語・韓国文学・現代フィクション学教授のバン・ミンホ氏によると、2010年6月23日午後11時23分、肺疾患が悪化し、東京の武蔵野台病院で亡くなった。遺骨は新潟県の寺院に安置され、妻に「こんなによく接してくれてありがとう」というメッセージを残したと伝えられている。
日本での彼の作品についてはほとんど知られておらず、残念ながら日本での彼の著作は現在原稿が残っていません。

 

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