「日本の政治史上最初の社会主義政権、すなわち片山哲内閣が社会党、民主党、国民協同党の3党連立によって誕生したのは、敗戦から1年9か月後(1947年5月24日)のことである」(P28)
社会党、民主党、国民協同党の3党連立と聞いて、名前からして2009年の民主、社民、国民新党の3党連立政権に酷似していることはいうまでもない。
「片山社会党内閣が総辞職したのは、その成立から8か月後の1948年2月(10日)であった。社会党首班の内閣が1年を経ずして短命に終わった最大理由の一つは、いわゆる党内抗争である。片山内閣を瓦解に導いた直接の原因は、48年2月5日、公務員給与増額にかかわる政府補正予算案を与党社会党の予算委員長によって潰されてしまったことにある。この予算委員長こそ、当時左派指導者の地位を固めつつあった旧日無系・労農派の鈴木茂三郎(党政調会長)である」(P55)
日本の政治史上初の社会主義政権は、成立からわずか8カ月で瓦解し、その最大理由は党内抗争だったと聞いて、やはりだれもが2009年に誕生した民主党政権を想起せざるをえないだろう。
8カ月という数字も偶然の一致とはいえ、あの非自民細川連立政権、鳩山政権と全く同じ。驚くべきことではなかろうか。
原彬久氏はこのような顛末を振り返り次のように書く。
「つまり、与党の予算委員長が主導的に野党と歩調を合わせて政府原案を葬り去ったという事実は、与党社会党が左派という『野党』を体内に抱えて、いまや政権を維持できなくなったことを物語っていた。経済安定本部のおける最高幹部の一人としてこの一件については『一分刻みで知っている』都留重人は、こう回想する。『片山内閣がつぶれたのも、保守派がつぶしたんじゃない、社会党の中の左派がつぶしたんです(都留重人「ルーズベルトの言葉」、鶴見俊輔編『語り継ぐ戦後史Ⅱ』所収)。奇策を弄して社会党片山内閣を破局に導き、次の芦田内閣すなわち保守首班内閣を支持して閣僚(加藤勘十労相、野溝勝国務相まで自派内から送り出すという、ある種脈絡を欠く機会主義的なこの左派の行動は興味深い」(P56~57)
「片山内閣をつぶしたのは社会党左派だった」という都留重人の証言、日本の政治史上初の社会主義政権を破局に導き、保守内閣を支持して閣僚を送り出す「脈絡を欠く機会主義的なこの左派の行動」という原彬久の指摘。
これはあの細川連立政権から社会党が離脱して、社会党左派の村山富市が自民党に担がれて自社さ政権成立の過程と瓜二つではないか。
この「『自社連立』は社会党右派とは別の世界で起こったのである。社会党は自ら『連立』の相方を党内で正式合意しないまま、自党『首班』が誕生」(P315)したのだった。
当時、赤松広隆・現民進党代議士とともに党内右派・中間派で党運営最高責任者の久保亘書記長は「村山さんが首班指名を受けるまで、その瞬間まで私は自社連立というものを考えたことはなかった」と証言する。
自党の書記長が知らないところで自社連立政権が誕生したとは、これまた驚くべきことだし、呆れた話というしかない。
リベラルの背信ということもいわれるが、肝心なところで自党や支持者を裏切り、自民党の延命に手を貸してきたのは社会党左派のような連中だったという持論にますます確信を深めた次第である。