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補陀落

野田佳彦と麻生久

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野田佳彦と麻生久

A「昔、軍部で今財務省といいますよね。戦前戦中も社会大衆党が軍部と結びついて、真っ先に解党して大政翼賛会になりました。あれとよく似てるんですよね。野田というのは非常に不吉です。」

B「そういう戦前の雰囲気ほんとに感じます。どうしても危機になると挙国一致とか、異論を排除し一億総なんとか・・・・まさに戦前回帰です。日本はあまり議会制民主主義を理解しているとは思えませんし。なんとなく全会一致で、って言うのも危険です 」
A
「野田よしひこは、麻生久に似ている。 官僚に接近、自分の党の党首を除名処分。 最後は真っ先に大政翼賛会に合流。
 野田よしひこは、消費増税に反対した鳩山、小沢を除名処分。 社会大衆党は、社会党の前身であり、民主党はその流れを汲むことはいうまでもない。」

以下ウィキより引用

社会大衆党は陸軍統制派・革新官僚に迎合・接近していく。主導したのは、麻生久を中心とする旧日本労農党系のグループであった。麻生は1934年「戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「広義国防論」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。
日中戦争勃発を受けて「国体の本義」を支持。その後も軍部との関係を強化し、1940年、斎藤隆夫の反軍演説による懲罰動議に反対した党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲ら8名に対し、麻生主導で除名処分にした。同7月に二大政党よりも早く、先頭切って自発的解散、大政翼賛会に合流した。

安部磯雄
1940年3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題で、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席すると、書記長麻生久の支配下にあった社会大衆党中央執行委員会により、党首でありながら、鈴木文治、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らとともに党除名処分を受ける。 同年 議員辞職。

鈴木文治
1940年、反軍演説を行った斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、書記長麻生久の支配下にあった中央執行委員会により、党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らとともに除名処分。戦時中は憲兵隊の監視下、鎌倉市の自宅近くの鎌倉教会長老として奉仕活動。

西尾末広
1940年党除名処分。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選する。翼賛政治会や大日本産業報国会と距離を置き、密かに東條英機内閣の倒閣運動にも加わった。その結果、戦後の公職追放を免れた。

麻生久
近衛の新体制運動に積極的に協力し、7月には他党に先駆けて社大党を解党させた。第2次近衛内閣においては新体制準備委員会委員となる。1940年9月6日、心臓麻痺のため逝去。享年49。
しかし大局的に見れば、日労系は、戦時中、安易に軍部と手を結び、政党政治、労働運動を解
体させていった罪は余りにも重い。その背景にあるものは、マルクス主義に引きづられていった
思想的あいまいさ、「統一」の看板しかない、あいまいな政治姿勢にあるのではないか。これは
戦後の社会党の中でも変わらぬ体質であったといえるだろう。

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